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他にもブログやHPを更新していますが、ここでは参考資料としての記事や補足する写真をUPしたいと思います。

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2012.04.11    カテゴリ:  神社 

   安久津八幡神社

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どのHP等を見ても、八幡神社といいながら、祭神の説明が一切記載されているものがありませんでした。
確かに、鶴岡八幡を勧請したのは、定かでは無いと下記にも記載しています。
慈覚大師円仁が阿弥陀堂を建てさせたが始まりとすればやはりそこには神仏混合の信仰が曖昧にさせたのかも知れません。
人は、何かにすがりたくなるもの、それがありがたいものであれば阿弥陀様でも八幡様でもよかったのかも知れませんね。
因みに、鎌倉の八幡宮の勧請であれば祭神は以下の三神かも知れませんね。

応神天皇(誉田別尊)
比売神(ひめがみ)
神功皇后(息長足姫命)

鎮座地:山形県東置賜郡高畠町大字安久津
国道113号(七ヶ宿街道)道の駅たかはたの向にあります。

由緒
安久津八幡神社は、貞観2年(860年)、慈覚大師が豪族、安久津磐三郎の協力で阿弥陀堂を建てたのが始まりと言われ、その後、平安後期(前九年の役の際)に奥州平定のため、源義家が戦勝を祈願して、鎌倉鶴岡八幡を勧請したと伝えているが定かではない。(東北の八幡神社には源義家親子の逸話が残されていますね) 
神仏習合の考えから、阿弥陀仏信仰が八幡信仰に変わっていったとも考えられます。
(境内を見ると神仏習合であったことが良くわかります。)
石畳の参道の入口左手に、三重塔(寛政9年〔1797〕再建。初建は、寛永2年〔1625〕)、参道途中に舞楽殿、その奥に本殿がある。この三建造物は県の指定文化財となっており、方三間造で銅版葺き、置賜地方唯一の層塔である。
 舞楽殿は、室町末期のものといわれ「方一間宝形造」茅葺きである。毎年5月3日には、倭舞(やまとまい)、9月15日には延年の舞が気品高く、古式豊かに舞われる。山形県指定重要文化財に指定されています。
 境内には、鐘つき堂・千年松・流鏑馬的場跡などがあり、裏山一帯には、安久津古墳群(鳥居町支郡)十数基が点在している。そのほか、千年松(町指定文化財)奥の院の洞窟などがあり片葉の葦、爺婆石、弘法清水などの伝説も残っている。

神社は、置賜地方を支配した長井氏、伊達氏の時代には「東八幡宮」とも呼ばれ、最も栄えた時期でした。広大な境内には、別当神宮寺、学頭金蔵院、衆徒頭千殊院をはじめ12坊がありました。
鎌倉時代最古の民間文庫として知られている金沢文庫(神奈川県)には、弘長3年(1263)「出羽国歴代庄八幡宮」で修行する能海、湛忍という二人の若い僧が、それぞれ仏書を書写して入庫したものが今でも残されており、この社の古さを物語っております。


チョット離れたところに大きな第一の鳥居がありました。
何度も山形から七ヶ宿街道を宮城に向って走りましたが気付かずいました。
この三重塔に気を取られ見逃していたのですね。かなり大きいです。

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鳥居の両脇に「じじばば石」なるものがありました。もしかしたら古い鳥居の柱でしょうか?

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境内には、石祠・石碑・石仏・境内社・古墳・などなど説明の通りです。

まずは、厳島神社です。チョットイメージとは違いますが・・・

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安久津神社縮小006

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岩駒稲荷・・・横から見ましたら障子が破れチョット不気味? その神殿の後ろには石仏が見れます。


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反対側にも・・・・
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千年松と鐘突き堂

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最初これが本殿だと思いましたら、なんと舞楽殿でした。

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安久津神社縮小009

裏にまた参道が続いていました。

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居ました居ました、狛さまですよ。 思いがけなく年期の入った狛さんですよ。
尾は立っておらず、横に流れています。
顔はかなり風化してしまったようです。 ラッキーな巡り会い! 残念なのが年代不詳

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本殿です。
安久津八幡神社本殿は、幾度となく火災に見舞われ、宝物や記録はほとんど失われました。
わずかに残る神社縁起書や棟札などの記録から、明応9年(1500)伊達尚宗により社殿を再建された記録を最古として、七度消失しその度に再建されてきました。
現在の本殿は、寛保3年(1743)に消失した社殿を米沢藩上杉氏九代重貞の代宝暦五年(1765)に再建されたものです。
三間社流造(さんげんやしろながれづくり)、軒組は和様平三斗(わようひらみつと)といいます。
棟の両側には鬼瓦があげられ、屋根が半円形に張り出す特異な形状をしています。
江戸時代を代表する建物として昭和三十年県指定有形文化財。



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この千木を見ていただきたい、普通の神社ならどんな小さな神社でも千木があれば外千木や内千木のどちらかに分かれているがこの本殿は全く角材のままだ。
意図があったのか? 知識が無かったのか? こだわりが無かったのか?
いづれにせよなかなか見れない建造物だと思う。

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隙間から神殿が見えましたので写真を撮ってしまいました。ごめんなさい。

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本殿の入口にも大きな狛犬がいました、嬉しいじゃないですか!

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この狛犬もオリジナリティーに溢れている。 来て良かったと思いましたよ。


では、参道の横を見ながら帰りましょう。

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三重塔の敷地にも

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さぁ、かぁちゃんお天道様が傾いたからかえっぺ。

2012.03.02    カテゴリ:  神社 

   志波姫神社と皇大神社(栗原市高清水)

志波姫神社 高清水五輪

鎮座地:宮城県栗原市高清水五輪17−2

御祭神:天 鈿 女 命 (アメノウズメノミコト)

御由緒:式内社・志波姫神社の論社の一つであり古来、清水権現や清水明神と称された古社ある。
創祀年代は不詳。
寛保年中夏、大旱の際、領主亘理氏、別当三明院知観に命じ雨を祈り、雨を降らせ農耕を助けたとし領主より社領を献納した。明治に至って現在の地に遷座した。

ここを探すのに無駄足を踏みました。
何故かと申しますと、古い地図帳に載っていた場所に行ったのですが、高清水内にあった志波姫神社に行くとそこは皇大神社になっていました。
無関係では無いだろうと記録を撮ってきましたので、後半にUPします。

それで志波姫神社ですが、入口には史跡五輪之塔と石碑がありました。

ブログ志波姫神社・高清水001

ブログ志波姫神社・高清水002

ブログ志波姫神社・高清水003

社殿ですが、どうやら中に石祠があるようで、これは覆屋のようです。


ブログ志波姫神社・高清水004

ブログ志波姫神社・高清水005

参道横の雪に埋もれていた五輪之塔の石碑のようですが、雪に埋もれて一部しか見れませんでした。

ブログ志波姫神社・高清水006




皇大神社

鎮座地:宮城県栗原市高清水字佐野丁25

御祭神:大 日 霎 貴 尊 (オオヒルメノムチノミコト)

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入口道路沿いに石碑が・・
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俗に御神明さまといわれ天照大神を祀り奥州神明七社の一社とされ
養老年中(七一七年)の勧請で元正天皇の御代東奥田開拓の勅願所といわれ境内には樹齢千年近い大欅があった。
高清水拾遺志には、昔西村にものを亘理氏(領主)がこの地に移したとある。
                    
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何故地図に志波姫と書いてあったのか? 今の地図には皇大神社と記されています。
志波姫との関係は不明です。







2012.02.12    カテゴリ:  神社 

   志波姫神社補足説明

志波姫神社_0023
志波姫神社(築館志波姫八樟)">志波姫神社(築館志波姫八樟) ←記事はこちら
志波姫町は、堀口・八樟・沼崎・刈敷・伊豆野・南郷・北郷の七ヶ村に分かれていた。
明治維新の改革によって、明治九年、堀口・八樟・と姫郷村に沼崎・刈敷・伊豆野を白幡村に南郷・北郷を梅崎村に合併し三ヶ村ができた。

明治二十四年四月、町村制により三ヶ村を合併し、村社志波姫神社(延喜式内社、栗原七社の中の一明神大)の社名に因んで志波姫村と称し、昭和四十年一月一日現在の志波姫町となった。


宗教
古代人は不可思議なものの働きを神とした。
天の運行、日・月・星・山川・沼沢・祖先などいずれも神であって、その他最も恐れ怪しむものを皆神聖視し、その
災いを避けるために祈り、もし荒れて災いをなせば祭って和ますことをした。
これが祭りであった。

「出雲風土記」の「それぞれの部落に一族の神が祀られ」ていたのも同じ思想から出たものであろう。

「社」とは国土を祭ることをいう。

清められた地所が社となった。
社は森であり、石であり、注連縄が張られ所は神のいますところであり神社と呼ばれた。
山も川もそのものが神であった。


多賀城・伊治城・牡鹿柵・桃生城・胆沢城に式内社が多い、これは戦勝祈願と蝦夷服属のために官社された多いと見られる。
栗原郡にも沿岸で名神大社はとしては志波姫神社だけである。 即ち一宮である。


石碑などによく見られる文字ですが、このような意味があります。

庚申(支那伝来神で元の時代より流行した神)

雲南(宇奈根、うな路の神、即ち水路、溝の水行の神である)

二渡(三渡、水渡の神で二渡となり、にはとりともされた)


幕末に到っては、復古思想と相俟って「古事記」神代の巻に出てくる神々を古来の祭神したものが多い。
明治維新は、この傾向を一層強くしあらゆる神社に祭料を定めた。
不明なものは、多くスサノヲの命をあてた。



志波姫神社

祭神は明治以降、木花開耶姫命とされた。

徳川初期ここに移された。
この社はもともと延喜式神明帳栗原七座の内の唯一つの大社で人皇四十代聖武天皇の神亀天平年間に造られたと云われ又の名を伊豆権現とも称して築館村東浦玄光に鎮座していた。

延暦年間(796〜801)には、坂上田村麻呂東征の際に武運長久、五穀豊穣を祈願したとの言い伝えもある。
正保の始め不詳にも祝融の災(火事の災難)にかかり社殿の社殿のすべてが鳥有に帰し(何もかもまったくなくなってしまうこと。)当時の規模等伺い知る由もない。

その後再建する人もなく只、伊豆権現の石宮とその側に八坂神社の石宮が立ちその跡を祀っていたのであったという。

忠宗の時、慶安三年(1650)「この由緒正しき神殿を再建すべし」との御掟を受けた時の領主、古内主膳広重がその中心地に当たる八樟村の聖域に社地を移して社殿を整えた。

境内には愛宕神社があって、軻遇突智命が祀られている。
又、八坂神社、樟神社、白山神社、八幡神社、運難神社、熊野神社、五十瀬神社、駒形神社等の石宮がある。


大日本地名辞書 吉田東伍著から引用

八樟(ヤツクヌギ)
今、志波姫(シバヒメ)村と改む、築館の東北一里、一迫川の右辺の平郊に居る。封内記云、八樟邑、伊豆野権現、此社、旧在築館邑、明暦三年、移于本邑笹森、樟明神、祭樟樹、邑名本之、堀口邑古塁、号西館、伝曰、大庭彦七郎所居。
○樟は、古訓クスなれば、之をクヌに仮借せるは誤れり、されど、余州にもこの例あり。

志波姫(シバヒメ)神社
今、八樟の伊豆野(イヅノ)権現擬せらるれど、明証なし。按、延喜式、栗原郡志波姫神社は、名神大と注せられたり、之を、高清水駅、又桜目村は擬定する者あれど、共に力石峠の南なれば、古の栗原郡の地にあらず。封内記に「一迫八樟邑、伊豆野権現、是亦曰志波姫神社、土人伝言、往時在築館邑、其地為墾田、故移之八樟邑」云々、之に従ふべきか。今、此間に志波姫の村名を建てしも、之に因れるなり。○再按、栗原郡旧地考に、八樟の伊豆権現を、志波姫神に擬するは、しひごとなり、もしくは、城生野(ジヤウノ)の大仏山などに此神おはしけん、(大槻氏云、大仏(ダイブツ)山は、今、草堂の中に、石仏地蔵菩薩を安置するのみ)云々。さて、此志波姫とは、八衢比売にあたり、やがて道祖神に同じ。中世以来、道路衢神と呼ばれし岐神も、これに外ならずといふ。論は、宮城郡志波彦神社址の下に詳にしたり。本朝世紀に、 天慶元年、東西両京、大小路衢、刻木作神、凡厥躰像、髣髴男女、起居不同、臍下腰底、刻絵陰陽、構几案、拝礼慇勤、号曰岐神、又称御霊、未知何祥、時人奇之、

と載せられしに拠れば、後世其路辺に立つが故に、之を六道地蔵尊に混淆したりし所以も推断せらる。且、道路衢と六道は、語音相渉れり。城生野の石仏地蔵尊、最究明を要す。岐神を、第六(ダイロク)天にも、庚申(カウシン)尊にも謬れる例証あり、牡鹿郡第六天山に合考すべし。

たのむぞよあすはの宮にさすしばのしばしがほども見ねば恋しき、〔新千載集〕   法印定為

類聚名義考云、阿須波神は、古事記に、大年神の子、庭津日神、阿須波神とあるそれか、越前国足羽郡に足羽神社あり、摂津国難波(大坂)の坐摩(イガスリ)五座の中にも、阿須波神、波比岐神ませり。
○又按、阿須波神は、旧伝に大年神の子と云へば、岐神と相異なるが如し。されど、神祇には、同功を一躰として之を祭ること、古よりの風なり。猿田彦を、岐神と同功一躰とするが如き、是なり。足羽神と岐神、亦此例なり。(この他に、道返(チカヘシ)神、道守(チモリ)神、道股神の類皆同じ)庭津日は庭辺(ニハツヘ)なり、足羽は足庭(アシハ)なり、古事記に、分ちて二神とすれど、万葉集に「庭中の足羽の神に小柴さし」とよみ、一神とす。奥州の方俗、今も庭渡(ニハタリ)の権現とて祭る者、即是なり。(坐摩の足羽、波比岐も、同功一躰なり、古事記は、波比岐神をも、大年神の子とす)


伊豆大権現 石宮←記事はここをクリック

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志波姫神社(大崎市古川桜ノ目) ←記事はここ

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追記予定



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